<カーテンとひだ>
黒河内:今回コレクションでは、カーテンにインスピレーションを受けて、新しい、サラシのような真っ白な白から、日に焼けてちょっと黄ばんだエクリュのような白まで、白い色の色出しを繊細にやったんです。染色工場さんに何度もお願いして、職人さんに「いい加減にしてくれ!これ以上変わらないから!」と言われるくらいやったんですけど、どれだけ追い求めても記憶の白には辿り着けなくて。でもそれは、挫折したわけではなくて、それが見えたことが良かったと思うんです。今の自分が出したい白にならなくても、着る人が窓だとして、洋服がカーテンのような役割だったら、その人がまとっていく時間の中でこの洋服が定着して、その人の白になっていけばいいんだとハッとしたんですね。もうひとつ、自分が白に心を掴まれたのは、「包む」のコレクションの時に会社で蚕を育てた体験もありました。お蚕さまが1万倍の大きさに育ち、糸を吐く前に透明になり、徐々に糸を体の周りに八の字のように糸を吐き出しながら、自分の体を包んでいく様子はそれは神秘的で。常々、皮膚と洋服の間みたいなものを作りたいと考えているんですけど、その原始的なものを見ている感覚があったんですね。その経験も自分の中に残っていて、白のコレクション、白いレイヤーのコレクションを作りたかったのかもしれません。
堀江:蚕を飼っている部屋からは、カサカサと音がするんですよね。あと独特のにおいがする。蚕は農家の副収入になる重要なものだったわけですけど、敬意をもって、必ずさん付けで呼ぶんですよ。
黒河内:うちの祖母もそうでした。
堀江:ただの商売道具ではなく、家族の一員なんですね。蚕はけなげに、自分の色を全部糸に託して透明になる。繭のなかには、一晩二晩で変色するものもあります。時間が経つと、 ちょっと黄ばんだりもする。個体差によるものかもしれませんが、ベージュがかったものや汚れなんかも味わいがあって、綺麗だなと思いましたね。だからそのカーテンの白のグラデーションは、私の原体験にもあるような気がします。
黒河内:堀江さんの本で描かれていた暗闇が印象に残っているのですが、白と常に隣り合わせにある闇、黒にも惹かれています。作品の中に「窓の中の窓、外部、窓の順ではなく、窓、内部、窓、外部へと運ばれていく視線が心地よさと居心地の悪さの間で揺れる」という描写があって、室内の影とのコントラストに不安のようなものを感じるんですけど、それが共存することで見える美しさを感じたんですね。子供時代を田舎で過ごして良かったと思うのは、田舎には、夜になると何も見えない闇がやってきて、その中で目が慣れてきた時に、ボヤーっと障子の向こうに、月明かりを感じるようになる瞬間があって。そういうものは夜の怖さではあるんだけど、神秘的でもある。コレクションの中には黒もたくさんあるんですが、自分の中では大切な闇の部分でもあります。春夏はどちらかというと昼の窓を描きましたが、秋冬は夜の窓を描けたらいいな、と思っています。
堀江:白は、最初からあるものではなくて、染めるものなんですね。
黒河内:そうなんです。本当の白はもともとは生成りで、白という言葉は、漂白や潔白という意味で使われていたもので、色としての真っ白な白は人間が作り出したもののようです。
堀江:空白の白か、空虚に近いものは、色を抜いていかなければならないわけですね。逆に、本当に何にもない、電灯も何もない真っ暗な田舎の中の夜の闇は、黒としか言いようがないんですけど、例えば今、黒河内さんがお召しになっている黒も、求めているのはこの黒じゃない! と注文なさるわけでしょ?
黒河内:そうですね。で、黒も真っ黒に見えるには、染色の時に少し赤を入れると、視覚的に黒っぽく、深く見えるんですけど、それは繊維によって違うんです。青めに振った方が黒く見える繊維があったり、黒も染色が難しいですね。
堀江:単純に白黒と言いますが、白と黒の間にはものすごくたくさんの色が入っていて、たくさんの記憶が混じり合ってその色を作っていることがわかるような気がします。
黒河内:ところで堀江さん自身が居心地がいいと思う窓はどういうものなんですか?
堀江:その日によって違いますね。居心地のよさの基準が分からないです。統一感がないというか。窓全般が好きなので、あれば嬉しいんですが、窓のない空間の方が落ち着く日もあるんです。ホテルのように密閉度の高いところで、雨戸を閉め、アルミサッシの窓を閉めて、昼間から擬似的な闇をつくりたいときがありますし、外が見えなくても、わずかな光の筋と通りの気配だけ伝えてくれる窓でいいと思うこともある。建築家は、窓を作る時に、どういう景色が見えるか、どんな借景が望めるかを計算します。山や海のように変化しないものだったらいいんですけど、東京ではすぐ隣に、あるいは向かいに大きな建物が立ってしまうこともあるので、完全な計算はできません。ただ、建物の裏側、見えないところの窓は気になりますね。隣接する建物が取り壊され、更地が出現して、そのまた隣にあった家の側面や裏面が剥き出しになると、あ、手抜いてるな、とがっかりすることがある。見えないところにコストをかける必要はないから、これでいいんだ、と。薄い明かりが入ればいい、壁面のなかでの位置や配置のバランスは二の次みたいな家がないわけではない。居心地のよさはわからないけれど、悪さはわかる。
黒河内:住宅街の中を歩いていて出くわす窓のすりガラス越しに、日用品たちが透けて見えたりするのが私にとっては日本らしい風景です。
堀江:不思議にほっとする光景ですね。すりガラスの向こうに洗剤やお醤油のシルエットが見えると、匂いや音まで伝わってくるようです。どういう洗剤を使っているのか、むかしは容器や瓶の形で見当がつきました。すりガラスの窓は、幻燈のように暮らしの一部を外に行く人に見せてくれた。
黒河内:ある日、祖母の家に行った時に電子レンジの後ろにカーネーションの造花があることに気づいたんです。長い間気づかなかったんですけど、おそらくもう何年もずっとそこにあって。中で生活をしている時は全く見えない位置、自分たちの目線かあらは見えないところに、カーネーションの花を置く行為が愛おしくて。都会では、歩行者がいることで、窓に対してもてなしの気持ちで花を置くと思うんですけど、田舎は畑ばかりで、通るのは猫ぐらいなのに、そこに赤い造花を置く感覚がいいなと思った記憶があります。
堀江:なるほど。洋服を作られる時は、そんなふうに、向こう側にあるモノを意識していらっしゃるんですか? ふだん気づいていなかった大事なもの、肉体ではない何かがそこにあるという感覚も重要でしょうか?
黒河内:私の仕事は、洋服、量産品を多くの人に届けることですが、自分自身の作業としては、おぼろげなものを追っている感覚があって。それは何か記憶のもやのようなものでもありますし、確かな肉体ではないんですね。もちろん堀江さんの「戸惑う窓」と出会ってこのコレクションを作りましたが、それはこの本の中の一文一文から生地や服を作ることではなくて、この本や経験を通して、自分自身の戸惑う窓とは、どういうものなのだろうかを紐解くことなんです。なので最終的にはいつも自分自身のパーソナルな、私小説のような存在になるんですけど、何年か経って見ると、その時の自分の心情やどういう景色で作ったのかが、バーっと戻ってくる感覚があります。堀江さんはたくさんのストーリーを見て何か記録されたりしているのかな、と思っていたんですが、そうではなくて思い出しながら書かれていると読みました。新しい作品を作るときには、自分の頭の中を開けていくような作業の仕方になるんですか?
堀江:そうですね。引き出しがあるのかどうかも分かりませんが、決めて書くことができないんです。それから、記憶の細部には、往々にして誤りがあります。いまの時代は調べも楽ですから、本にする前に気づいて訂正することもありますが、思い違いもじつは大事な記憶なんです。映画や小説のなかで、たしかにあったと思い込んでいた場面が、指摘されてみると存在しなかったということが、けっこうあるんですよ。しかし、仮に後で調べて誤りだと分かったとしても、その誤った記憶を抱えて過ごしてきた時間があって今がある。そう考えると、全部きれいに修正してはいけない気がするんです。もちろん、誰かを傷つけたり、迷惑をかけたりしない前提ですけど。自分だけの誤りとして後で訂正できるのであれば、この誤りとともにどんなふうに生きてきたか、そちらの方に意味がある。だから書く時には、とにかく一応書いてみて、記憶がどこから出てきたのかを後で考える。先程の、皮膚と洋服の間のようなものという言葉で思い出したことがあるんです。プルーストの『失われた時を求めて』に出てくるデザイナー、フォルチュニの逸話ですが、あのプリーツ・ドレスは、もともとお手伝いさんが雑巾をギュッと絞って戻した時にできるひだがヒントになったそうなんですね。黒河内さんのデザインを見て、それを思い出したんです。レースで透かせるだけじゃなくて、絞って戻りきらない内側の何かが、独特の美しい光を発しています。文章を書くときも、そんなふうに1枚の紙を絞って広げたひだの、見えない部分をつかみ取れたらと思うんですが、実際には、絞って戻さないまま、バケツの縁で乾いてしまった雑巾みたいになる。それをもう一度水に溶こうとしても、鰹節を戻すみたいな感じで、うまくいくはずがない。
黒河内:ひだといえば、今回コレクションを作るときに、ちょうど家のカーテンをブラインドに変えたんです。それで、元々一度作ったカーテンたちを整理する際にカーテン着てみたんです。カーテンってただの四角だと思っていたけれど、体に当てた時にどこをどう当てても、体がそのひだに纏われる様子が綺麗だったし、包まれる感覚があった。そういえば、確かにこの生地たちが昼の風をはらんで膨らんだり、動くことで景色を産み出してた、ということに気づいて。カーテンを着た写真を元に、体に合わせてどこにタックを寄せようか、立体的に見せようか、こういうドレスにしよう!とスタッフと話しながら作ったんですけど、それは不思議で貴重な経験でした。堀江さんがおっしゃった雑巾のひだをギュッと絞って、そのひだの見えているところからの創作というのは自分にとってもすーっと入る強い言葉でした。
堀江:いくらフォルチュニから借りたとはいえ、雑巾じゃなくて、せめて布巾と言い換えておけばよかったですね(笑)。申し訳ありません。
黒河内:大丈夫です(笑)
堀江:黒河内さんが時間の水に浸して絞るのは、記憶の繭ですね。レースのカーテンを身にまとうと、それがひだのある衣装になる。ひだは、とても大切な要素ですね。
黒河内:そう思います。やはり人間の体は立体的で、どこにも直線はないですが、人の体に生地が沿った時に、とろけるような曲線であって欲しい。ちょっと冬になってきて太ってしまったなあというときに、手首や鎖骨のあたりなど変わらない場所に、生地がどういう風に沿えばその人が綺麗に見えるのかを思い描きながら作ったりしています。
完。